北方などについて勉強した

勉強をしました。北方での緊張に加えて、1808年にオランダと敵対関係にあったイギリスの軍艦フェートン号が、長崎湾内のオランダ商館にまで侵入する事件がおこりました(フェートン号事件)。その後もイギリス船が、日本近海に姿を見せました。そこで幕府は、1825年に異国船打払令を出して外国船を見たら、ただちに撃退するように命じました。このため1837年、アメリカ船モリソン号が浦賀へ来航すると、これを撃退する事件がおこりました(モリソン号事件)。これに対し翌年、蘭学者の渡辺崋山や高野長英が幕府の鎖国政策を批判すると、幕府はこれを処罰しました。松平定信の辞任後、文化・文政期から天保期にかけての約50年のあいだ、政治の実権は11代将軍徳川家斉がにぎりました。徳川家斉は将軍職を子にゆずった後も大御所として実権をにぎり続けたので、この政治を大御所政治とよびます。この時期は、はじめ質素倹約が受けつがれましたが、やがて品質のおとる貨幣を大量に流通させて、幕府財政がうるおうと生活は華美になりました。また、商人の経済活動が活発になって、都市に庶民文化が栄えることになりました。しかし、農村では貧富の差が広がり各地で百姓一揆や村方騒動があいつぎ、治安が乱れるようになりました。

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